1)★交野が原の七夕伝説について

 私たちが住む枚方市・交野市の地域は古くは交野ケ原と呼ばれ、「天の川」という七夕にゆかりのある名前の川が流れています。交野市の倉治には織姫(天棚機比売大神)を祀る機物神社があり、天の川をはさんだ対岸の台地に中山観音廃寺跡には牽牛石があります。そして、ほぼ中央の天の川に逢合橋という名の橋が架かっており、この橋で年に一度七夕の夜に二人が逢い、愛し合うというロマンチックな話が伝えられています。

 

  牽牛石
機物神社(はたものじんじゃ)   逢合橋(あいあいばし)   牽牛石(けんぎゅうせき)

(水彩画はすべて、水彩画家:
岡修作さん提供)

天の川が淀川と合流する直前に架かる橋はかささぎ橋と名付けられています。
七夕伝説では、七夕の夜、鵲(かささぎという鳥)が翼を連ねて橋を架け、二人を逢わせることに由来しています。
また、天の川が流れる交野ヶ原一帯には星田、星ケ丘、中宮(北極星のある場所を意味する)、天の川上流の磐船渓谷には物部氏の祖先神、饒速日命(ニギハヤヒノミコト)が天上より天の磐船で地上に降臨したという伝説をもつ磐船神社、
星田妙見宮(北斗七星を祀る)・降星山光林寺・星ノ森の三ヵ所に星が降ったという降星伝説が残されています。

 

 

磐船神社(いわふねじんじゃ)   星田妙見宮(ほしだみょうけんぐう)

天津橋(天の港の意)、天田神社や、垣武天皇が道教の思想を受け入れ天神の星の祭典をしたという交野郊祀壇跡も伝承されています。
 聖なる山、交野山は機物神社のすぐ頭上にあります。天女・羽衣伝説や、枚方市の山手には「夕鶴」の話によく似た鶴と孝子鈴見伝説が残されています。
 このように当地域には、古くから七夕と星、天体にちなんだ地名や伝承地がまるで星屑のように散らばっています。
 ここ交野ヶ原は古くから渡米人が開き、大陸の文化を伝えました。特に中宮の百済を造営した百済王一族はこの地に多くの影響を与えました。平安時代、百済 王一族と関係の深かった垣武天皇を始め平城、嵯峨、仁命天皇等が度々交野に行幸し、風光に恵まれたこの地を愛したのでした。それにつれて多くの宮廷人が訪 れ、四季折々の歌や七夕歌を残しています。それは交野ヶ原文芸とも言われる素晴らしい遺産です。渡米人のもつ豊かな文化や風習も伝承され、大陸から伝来し た七夕伝説も自然な形で受け入れられました。そして、交野ヶ原を地上での天の川七夕の地として位置付け、それにふさわしい名所を作り名付けていったので す。
天津橋(あまつばし) 天田神社(あまだじんじゃ)

日本全国、七夕祭りが盛んな地域は数多くありますが、平安の昔から私たちの故郷・交野ヶ原のように地域全体が七夕と星・天体に関連した地名や伝承に彩られているゾーンは他所にないと思います。
我が国における七夕伝説・星祭りの発祥の地と言えるでしょう。
 また、この地域の地勢や風光が天の川伝説を生むのにふさわしい素晴らしい景観であったことも一因だと思われます。
 平安時代在原業平の著と伝えられる「伊勢物語」の中で、交野ヶ原の天の川を訪れた渚院の惟喬親王(文徳天皇の皇子)は「交野を狩りて天の川のほとりに至る題して歌読みて杯はさせ」と言われたのに対し、在原業平は「狩り暮らし棚機津女に宿からむ、天の河原に我は来にけり」と歌い、これに対し惟喬親王は返歌ができずに困っているところを、義父の紀有常が
「ひととせにひとたび来ます君待てど、宿かす人もあらじとぞ思う」
と歌い助け舟を出したという有名な話は、その当時ここ交野ヶ原で天の川と七夕伝説が定着していたことを思わせます。

天野川源流(あまのかわげんりゅう)

 時代は下り江戸時代になって元禄二年二月十一日当地域を訪れた貝原益軒(養生訓で知られる)は、その紀行文「南遊紀行」の中で次のように記しています。
 『天の川の源は、生駒山の下の北より流れ出て、田原という谷を過ぎ、岩船に落ち、私市村の南を経、枚方町の北へ出て淀川に入る。獅子窟山より天の川を見 下ろせば、其川東西に直にながれ、砂川に水少く、其川原白く、ひろく長くして、あたかも天上の銀河(天の川)の形の如し、さてこそ比川を天の川とは名付た れ、それ比所よりみざるさきは、只天の川の流れの末ばかりをわたりて、古人天の川と名付けし意を知らず、凡諸国の川を見しに、かくのごとく白砂のひろく直 にして、数里長くつづきたるはいまだ見ず。天の川と名付し事、むべなり・・・・・・・云々』

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